法華寺の歴史
総敍
盛岡市上行山法花寺は京都勅願書妙満寺を総本山とする顕本法華宗に属し、今を距る大凡三百七十年前天正年間皇紀二千二百五十年のころ、千蔵院日慶上人に依りて開創せられたるものなり。
当初地を今の光豪寺の西隣に相し、一字を建立したるもまだその本寺を明らかにせず、当時この地方は不来方と稱し、随所の豪族は既ね南部氏に帰し、戦雲全く治り南部二十六代利尚公の居城を此地に移すべく、築城準備の時代にして人煙日に殷盛を加えんとし、百時創建の際なりしを以て、上人はこの間に処し専ら開教弘通の為に肝胆を碎き、起訴の確立に全力を竭したり。
総敍の続きは「法華寺略詩」を参照ください。
開創(本山妙満寺との関係)
上行山法華寺開山は、玄妙阿闍梨日什大正師で、近世まで、日蓮宗勝劣派の一派に属する京都三條南の本山妙満寺の末寺でありました。
その開基は、天正年間千蔵院日慶上人であり、当時市内名須川町光台寺西隣であったが、寛文三年(1663)五世日生上人の時、現在地に移轉しました。
開創の続きは「法華寺略詩」を参照ください
歴代
- 開基:千蔵院日慶上人
- 天正十八年、盛岡に一字建立、山号を上行山と号し、法華寺と称す。この当時は盛岡の地は年と共に殷賑の度が加わり、南部藩の居城に定まろうとする形成にあったので、好縁を得て盛岡に留まり開山の運びとなったのである。慶長十六年遷都化
- 第二世:光立院日進上人
- 不詳
- 第三世:住善院日照上人
- 始め日性と称す。本山妙満寺の歴代日性上人と同称の故、宗派公表に際し、日常上人より日照と改号を贈られ。
- 第四世:寶成院日養上人
- 始めは日要と称す。本山妙満寺の歴代と同号の故、日乗上人より、日養と改号を贈られた。
- 第五世:久本院日生上人
- 不詳
- 第六世:宗光院日普上人
- 法を日生上人に享く。延宝五年三月普山。宝永五年隠退
- 第七世:暁了院日秀上人
- 日生門下の俊傑。元禄元年六月普山。宝永五年隠退
- 第八世:策進院日喪上人
- 第六世日普上人の門弟。宝永五年七月普山。
- 第九世:唯性院日?上人
- 日秀上人門下。宝永五年七月普山法灯を紹ぐ。
- 第十世:照性院日隣上人
- 日秀上人門下。享保弐年四月普山
- 第十一世:具性院日?上人
- 盛岡の出身。日秀上人に就いて得度。享保四年4月十一世法灯を相続す。享保十七年隠退
- 第十二世:明珠院日芳上人
- 日秀上人の門下に入る。享保十八年6月法灯を嗣ぎ普山。宝暦四年隠退
- 第十三世:普性院日富上人
- 法を日?上人に亨くる。宝暦九年2月普山
- 第十四世:敬信院日廣上人
- 日芳上人の門弟。天明元年八月宗命を以て第十四世の法燈を相続す。
- 第十五世:観了院日元上人
- 盛岡に生まれる。日芳門下の英傑。
- 第十六世:信敬院日明上人
- 稗貫郡新堀生まれる。文化七年三月新山。
- 第十七世:清浄院日甫上人
- 日廣上人の門下。文政十一年一月法燈を相続す。
- 第十八世:観明院日誠上人
- 妙満寺権少僧都日元上人の高弟。天保三年六月法燈を相続す。
- 第十九世:妙解院日上人
- 権少僧都誘日上人に師事。天保十三年10月普山す。
- 第二十世:眞如院日海上人
- 盛岡に生まれる。観明院日誠上人に師事す。明治七年七月普山す。明治三十三年七月、法子、日研師に譲り、名須川町の以心院に隠退し、悠々老を養う。累進して僧都に叙せられた。
- 第二十一世:就学院日研上人
- 盛岡に生まれる。日海上人の高足である。明治三十三年七月、品川眞了院より入って法燈を相続嗣ぐ。権僧都に敍せられた。対象十年四月に引退し、名須川町以心院に悠々自適の境に入る。
- 第二十二世:日暢上人
- 権大僧正鈴木日雄上人の高足。当法華寺二十四世日昌上人の法兄。大正十年四月普山、同年十一月轉住。
- 第二十三世:観世院日音上人
- 本姓は木下氏静岡県鷲津生まれ。同県浜名郡太田の妙案寺で得度。知見院日輸上人に師事せり。大正十年十二月大土肥妙高寺より入って法灯を嗣ぐ。
- 第二十四世:日昌上人
- 田口氏にして栃木県の生まれ。権大僧正鈴木日雄上人の門に出づる。篤行気鋭にして春秋に富む。檀信徒の帰依頗る篤く、内外に教線を張り、活躍は縦横であった。昭和十三年盛岡市議会議員として、宗門人として初めての快挙。弟子は長円寺佐藤光宣、法華寺田口信之、瑞然寺佐々木瑞英、実成寺故佐藤寿晃各氏
- 第二十五世:日観上人
- 第二十四世田口日昌上人の弟子。昭和六十三年位牌堂新築、平成三年鐘楼堂新築、同年日什大正師六百遠忌奉行。平成九年人権擁護委員となる。
上記は一部の紹介です。
歴代上人の詳細は「法華寺略詩」にてご覧ください。歴代上人の墓碑等もご覧いただけます。